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20134/18

東京から来た大学生が見た足利市


足利は年間280万人余りが訪れる観光地ですが、外から来た方の生の声を聞く機会はあまりありません。
今回、当誌を発行しているNPO法人理事長がTwitterを通じて知り合った東京の学生さんをアテンドする機会に恵まれました。
彼のブログから転載許可を得て、掲載します。(「あしかがのこと。」編集部)

昨日・きょう(3/23~24)と栃木県足利市に滞在してきた。地元のNPO法人の理事をされている方で足利のおもてなしがライフワークという、奇特な御仁とSNSで知り合ったご縁もあり、懇切丁寧なご案内をしていただいた。

足利市の一帯は関東でも有数の古刹がひしめく地域だそうで、実際に足利将軍家の菩提寺である鑁阿寺や、源氏ゆかりの八幡八幡宮(下野国一社:下野國一社八幡宮 – Wikipedia)など足利氏に由縁をもつ寺社が山あいの市内に立ちならんでいる。

こちらは足利学校の路地裏門

こちらは足利学校の路地裏門

◎足利学校と鑁阿寺はともに足利氏の拠点(鎌倉時代を通してここにいたが、14世紀に室町幕府を開きその拠点を京都に構えた足利氏一族は、以後基本的には京都・鎌倉に定住するため、直接の関係があるのは12~14世紀)におかれた大学&菩提寺であるが、大学の方は江戸時代創建の孔子廟をそなえた立派なもので、区域内は足利市の助成によって復元遺構も整備され、かやぶき造りの建物が国道沿いから目立って見える。

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足利学校は、江戸期には足利藩の藩校として使用され、足利地域の学問的知識を集大成するような位置にあった場である。江戸時代~明治・大正・昭和前期を通じて多くの政治家・活動家・学者・画家などがこの学問施設を訪れたようで、陸海軍の大将格や嘉納治五郎のような人もリストに名前がある。

鑁阿寺は檀家をもたないお寺のようだが、地元の夏祭りなどの際に市民の集まる場所となる広い境内には、鎌倉~室町時代の創建とつたわるお堂も多い。

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旧市街中心部に位置するお寺周辺の通りはシャッター街の風景で、車社会ということもあってか人通りはほとんどみられない。そのせいか、境内へ入ると車の音がいっそう遠くに感じられる。このあたりはまさに空きテナントの宝庫といった光景で、東京から活動家や表現者を呼び込むルートをつくれれば…という話も出た。

◎この後日光方面へ抜ける山道を車で少し進み、地元のワイナリーへ案内していただく。ココ・ワイナリー・ファーム(こちらHP→COCO FARM&WINERY ココ・ファーム・ワイナリー)は、もともと知的障がいをかかえる「特別支援学級」(特別支援学級 – Wikipedia)の在籍者を中心に開墾・栽培を始めた経緯をもっており、まさにいちから民間の努力で経営を続けてきたということである。ファームの販売店&レストランへ向かう斜面の途中には、『こころみ学園』の方の宿舎もみえた。

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カリフォルニア/甲州ワインとの業務委託関係を結び、急な斜面を畑にして小さいながらに自前の生産工場も持つ立派な構えで、今年がちょうど30周年というお話。生産畑栽培の葡萄を100%使った白は鮮烈な風味で、長野ワインに味のニュアンスが似ている。テイスティングだけではもったいないので本当は持って帰りたかったが…金欠で断念。商業用に出荷される規模は小さくとも、地元の味をもっていることはやはり大きい。北関東の「山すそ」の地域に関する豊かなイメージを届けてくれる、刺激的なチャレンジだと思う。栃木県に寄られる方は、ぜひお立ち寄りになられるとよいです。11月中旬には収穫祭があるため、山の斜面にばーっとひらけた農場が人で埋めつくされるにぎわいぶりだとか。

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さて、その後は古墳(古墳の群集地帯でもあるらしい足利周辺は、古代史研究にとってはじっくり歩いてみるべき土地柄→史跡 – 足利市公式ホームページ)のとなりにある山頂のレストランへ連れていっていただく。意外にも(?)蕎麦は栃木県の名物だそうで、こういうところにも長野県の風土との親近感をみる。季候や生活感覚については、県北と県南でもちろんさまざまに違いをみせるだろうが(この点に関しては長野県の方がその度合いは濃いだろうけど)、利根川→渡良瀬川と関東平野の巨大河川を二つまたぎ、平野の終着地点にもあたる足利は山と川、平野のぶつかる地点でもあり、立地的にもいろいろな可能性を持っているのだと教えられた。

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◎この山頂から2・3分、斜面につけられた階段を下ると織姫神社に出る。コンクリート製の神社として明治期に創建されたエピソードもうかがったが、この神社は「機織り」(製糸業関係者が出資した結果だとか。これは隣の桐生市や周辺一帯の地域文化にもたぶん関わってくるお話)と「縁結び」のご利益をもち、川を挟んでちょうど対角線上に位置する門田稲荷神社の「縁切り」神社と対になっているとか。門田稲荷社のほうはひとまわり小ぢんまりとしたものだが、絵馬が訴えかける迫力はけっこうすさまじいものがある。

今回はお話をうかがうだけだったが、やはり川の対岸に浅間山(「せんげんやま」と読むみたい)神社があり、上宮が男、下宮が女にそれぞれ対応して幼児のおでこに神社の印を押してもらうぺたんこ祭という祭礼がいまでもきっちり行われているということ。後述の樺崎八幡宮では御神楽(無形民俗文化財指定)もやっているということで、その季節にはもう一度訪れてみようと思う。

正面左手にみえる大きい山が上宮。下宮はその隣、こぢんまりとした山らしい。渡良瀬川をはさんで対岸の織姫神社から

正面左手にみえる大きい山が上宮。下宮はその隣、こぢんまりとした山らしい。渡良瀬川をはさんで対岸の織姫神社から

ここらの山は、一見して決して険しいそびえ方をしているわけではない。ただ、ここから足尾/日光・奥会津といった巨大な山塊へ連なる起点でもあるという印象はたしかに力強く、渡良瀬川を挟んで南北の地理はかなり対照的なイメージを訪れる者に与えるのも事実である。そういえば、前日夜に入ったBAR『猫又屋』 (マスターはフレンドリーで確かな仕事人。鑁阿寺からすぐです。ゆったりしたカウンターで素敵な場所。なおなお、いましがたご本人のブログをみつけたのでこちらにリンクをば→BAR猫又屋マスター新井のブログ)のバーテンダーのお姉さんが「川向うには行くな」とお母さんに言われていた、という話をしてくれたのを思い出した。

◎さて、市の西部―住宅地と田圃が交錯するような場所には、14世紀の在地領主の居館跡が土塁(防壁代りに土で勾配を上げた防御施設)ごとしっかり残されていた。

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中里城跡の土塁・空堀遺構はボランティアの方々の自助努力で整備がされているらしく、土塁の内側は市民の方のお宅が何軒か立っている。

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うち一軒にお住まいの方からお話をうかがう機会をえたが、竹林が生い茂ったために刈り取って遺構の保全をやったり、市の公園造成計画の候補地になった際の町内の反対など、いろいろな経緯を話してくれた。ここの遺構は柳田氏という在地領主のものらしいが、本当によく残っていて驚く。

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市民の人出だけでこの遺跡が守られてきたことにも同様。

◎一方、渡良瀬川の中州にも城跡があり、こちらは大分荒れ果てた景観を呈していた。

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いい感じにぼろけた廃屋の隣に乳房神社があり、その土台となっている小山が岩井山城(勧農城とも)跡である。

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こちらの遺構は山城で、本格的な戦略拠点として使われたのだろうとわかる。

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15世紀後半に足利長尾氏(上杉謙信の実家の親戚。長尾氏は関東~甲信越の広大な一帯に親類縁者が分散していった歴史をもつ、鎌倉時代以来の家柄である)がおさえていたと看板の表示に説明書きがあったが、実際に写真でわかるように、川向うも山手もじっくり見渡せる要地。

◎さて、今回の足利への旅で最後となったのは、樺崎八幡宮である。

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足利から日光方面へ向けて車を30分程度走らせた谷あいにあり、ひらけた小盆地のような場所にぽつんと建つ。ここは、足利氏の二代目といわれる義兼が文治年間(1185~1189)の源頼朝による奥州戦争―奥州藤原氏討伐―の軍列にしたがい戦地(岩手県平泉)へおもむく途次、八幡神をこの地に勧請したことに起こるといい、室町期の境内図(『鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第』)も伝わる履歴の古い宮寺である。

足利氏歴代の墓所の基壇が出土。約900年前の地方名士の足あととも言える

足利氏歴代の墓所の基壇が出土。約900年前の地方名士の足あととも言える

ここには、かつて法界寺というお寺―いわゆる神宮寺があったらしく、明治の神仏分離令によって宮寺の所蔵物はほかに移されたが、遺構がきっちり残っていたようである。訪れた時間は夕方に近かったが、苑池と境内の遺構が相当きれいに復元工事をほどこされ、完成間近の雰囲気をにおわせるブルーシートもかぶせてあった。

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足利学校と鑁阿寺が地元観光ルートの拠点ということらしいが、どちらも徒歩5分の圏内ですんでしまう距離にある。ここがしっかり整備されれば、バイパスが近い土地柄も手伝って新しい人の流れが生れるのでは、という話になる。

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それにつけても興味深いのは、この地域における八幡宮の分布の稠密なことである。八幡神は渡来系氏族が九州の玄関口大宰府を経由して、カルデラ火山の噴火が生んだ豊後の国東半島突端まで定住したそのとき、彼ら独自の信仰神としてともに日本列島へ入ってきた神である。その後、現地の大社である宇佐八幡宮に祭られ、これが首都平安京の石清水八幡宮→源氏の拠点、関東の鎌倉に開かれた鶴岡八幡宮というふうに敷衍され、八幡神を祭神とする八幡宮の創建は全列島的な現象へと波及していく。

いわば平安時代の後半には八幡神の勧請ブームが全国的に熱を帯びて存在したということなのだが、今回まわっただけでも市内の八幡八幡宮、この樺崎八幡宮と、足利氏(=源氏)ゆかりの歴史をもつ社が目立った。その他、小さい社も含めれば足利には山裾~渡良瀬川沿いにかけて数箇所存在するらしい。軍神として武士の信仰を集めた八幡の神が、奥州への入り口ともいえるこの地域に根づいていったその歴史的過程と記憶とについては、いろいろに考えてみたいテーマである。これは昨年、宇佐に行って以来、頭に残り続けていること。

ともあれ、自分自身おぼろげなイメージしかもっていなかった北関東地域のひとつの場所に、こういうかたちで具体的なイメージをもてたことに感謝。尾内さん、何から何までご高配をいただき、ありがとうございました。

明治大学大学院 文学研究科 修士課程2年 越川 真人


※この記事に掲載されている情報は取材当時(2013/04/18)のものです。お気づきの点があれば、「あしかがのこと。」編集部へお問い合わせください。

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