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足利の花火 ヒストリー・ダイジェスト
今年記念すべき100回を迎える「足利の花火」。
足利市民であれば誰でも一度は足を運んだことがあると言っても過言ではない、夏のビッグイベント。けれど、その歴史を知っている人は意外に少ないのでは?
そこで今回は、「足利の花火」を主催する足利商工会議所の品田さんに見せていただいた「足利の花火」に関する歴史資料を元に、「足利の花火」ヒストリー・ダイジェストをご紹介します。
明治36年 7月7日 | 足利市通4丁目の仏具商市丸萬便舎の真下啓三郎氏等の発念により、渡良瀬川湖畔で第一回目の足利花火大会が開催される。 |
昭和4年 | 主催が足利商業連合会、足利市商工連合会に。木製の渡良瀬橋が人の重量に耐えられず、通行不能となる。 |
昭和5年 | 2尺玉が電文の誤訳で深夜12時15分に打ち上げられる。 |
昭和6年 | 当時の新聞発表15万人の人出。 |
昭和11年 | 中橋開通記念大会。打ち上げ花火の中に醤油会社の醤油引換券が入り好評。 |
昭和13年~23年 | 日中戦争の激化とそれに続く太平洋戦争並びに戦後の混乱、復興期により中止。 |
昭和24年 | 足利市商工会議所および足利商業連合会等により復活。仕掛5基、尺玉5発、打上355発。 |
昭和31年 | 花火師7名による大スターマイン千発同時打上げ。桟敷席1500坪を建設。 |
昭和32年 | 主催は足利市、足利商工会議所、足利繊維同業会に足利商業連合会が正式に加わり4者共催に。 |
昭和36年 | 市制40周年記念大会。フィナーレに400メートルの大ナイアガラ。 |
昭和38年 | 物価高騰により大会経費増大、資金調達特別委員会を結成。 |
昭和40年 | 市内交通事情により中止。 |
昭和41年 | 8月第1土曜日が開催日。保安距離が拡大し、2尺玉中止。 |
昭和47年 | 雷雨で開始が20分遅れる。足利工業高校9年ぶりの甲子園出場で「ガンバレ足工」の仕掛花火。 |
昭和49年 | 尺玉が姿を消し、仕掛け中心の都市型花火に移行。 |
昭和58年 | 10年ぶりに尺玉復活。打ち上げ場所が中橋上、下流および田中橋下流の3カ所に。 |
平成3年 | 太平記放映記念大会。52基2万5千発の仕掛けスターマインに昭和59年以来の5号玉も復活。太平記ブームに乗り40万人の人出。 |
平成15年 | 足利百年花火記念/わたらせ・サマー・フェスタ開催。 |
平成22年 | 第96回足利花火大会は過去最高44万人の人出。 |
足利を代表するイベントだからこそ、時代の流れや経済動向に左右されながら、多くの人の支えがあって続いてきた「足利の花火」。中島粂雄さんが書かれている文章が印象的です。
「この豪快で男性的な火祭りが、なぜこの足利に定着し、このように盛んに続けられてきたのであろうか。糸へんの町・機屋の町である足利が、関西や東京の企業人を相手に互角の商売をするためには、なにか人目を引く、生き馬の目を抜く趣向が必要であったのではなかろうか。その意味では花火は格好な舞台であり、足利の繊維業者は年に一度取引先をこの花火大会に招待し、秋冬物の商談を行うのが常であった。(文責:中島粂雄)」
※この記事に掲載されている情報は取材当時(2014/07/03)のものです。お気づきの点があれば、「あしかがのこと。」編集部へお問い合わせください。
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satoko motegi
足利生まれ、足利育ち。坂西地区出身・在住。
大学・社会人時代は神奈川と東京で過ごすも、長女の出産を機に足利に戻り、現在は東京(職場)と足利を行ったり来たりの生活を送る。
二児の母。
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